- JLogos検索辞書>
- 山崎町(近世)とは
「山崎町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
山崎町(近世) 江戸期~明治22年の町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山崎町(近世) 江戸期~明治5年の町名金沢城下町のうち,地子町の1つ文政4年上今町の一部が分立して成立町名は中世に山崎村であったことにちなむといい(古蹟志)中世から当地を山崎町と称していたという(金沢町奉行より出候町名)このことは寛永15年のキリシタン宗門改高札の請書に町名が記されていることからも確かめられる(古蹟志)城下には同町名の山崎町【やまざきまち】があることもあって,当町の比定地については山の小路とか十間町,あるいは殿町とかの諸説があり,「古蹟志」「郷土辞彙」ではともに現在の石引町に比定しているが,文政6年の「金沢町奉行より出候町名」「皇国地誌」「稿本金沢市史」などでは上今町とする石引町となるのは別の山崎町「皇国地誌」には「博労町ヨリ入口」と記す明治5年上今町に編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
山崎町(近世) 江戸期~明治10年の町名伏見町のうち北組本町12町の1つ津知橋通に沿い京通(本町通)より東,伊達町より西の町「府地誌」は,城下町時代に山崎家盛の第邸があり俗に「下材木町」と称したというが,豊公伏見城ノ図では,津知橋通の南北両側ともに町家地で,南側町裏に最上駿河守屋敷がある寛文10年山城国伏見街衢並近郊図によれば,津知橋通の北側に禅宗栄春寺があり,両側が民家になっている天保頃の軒数は27軒(伏見町誌)明治元年15番組,同5年伏見第2区,同7年第1区に所属同10年堀内村へ編入... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」